
ウィンストン・チャーチル卿の「謎(enigma)のなかの謎(mystery)に包まれた謎(riddle)である。」というロシアを評した有名な言葉があります。この言葉は、いまだに世界大国の間では真実であると語り継がれています。傍観しているだけでは、一向に現実を理解することはできないでしょう。旧ロシアの衰退した華麗さやソ連時代の暗い遺産が混じりあった、陰謀とミステリーあふれる国です。

豪華な宮殿が建ち、冬の寒さは厳しく、曲がりくねった川と壮大な山を持つロシアは、物理学、バレエ、ウォッカで有名です。また真夏には、太陽が沈まない白夜が見られます。人々は情熱的で、はつらつとしています。一見、厳格に見えますが、彼らは楽しいことやおしゃべりが大好きで、驚くほど寛大であったり、親切であったりします。ミハイル・バリシニコフ、レフ・トルストイ、マリア・シャラポワなど、 ロシアには世界的に有名な人物が数多くいます。無線電信を発明したアレクサンダー・ポポフ、元素の周期律表を作成し、40度のウォッカやスピリッツの製法を生み出した優秀な化学者ドミトリー・メンデレーエフも忘れてはいけません。
2006年4月現在、ロシアは世界で5番目に多い、1億4880万人の人口を持っています。ロシアの行政区画には、州、地方、共和国、自治州、自治管区があり、それらは「連邦構成体」と呼ばれ、ロシア全土には全部で88あります。また国土の面積は、ヨーロッパからアジアにかけて、地球の陸地の8分の1を占め世界最大の領土を持ちます。広大な平原と山脈が広がり、天然資源にも恵まれています。

建物は、荘厳なものも、趣味の悪いものもあります。感動的かつ恐ろしい過去を持ち、素晴らしい芸術を誇っています。ソビエト連邦の崩壊とともに、ソビエト以前にあったものが次々と復活しました。これにより、国の文化遺産を取り戻すための努力が始まったのです。国中で教会の修復作業がなされ、作品が禁止されていたロシアの作家や芸術家は再び注目を浴びるようになり、近代以前の社会の特質も戻ってきました。
1147年に築かれたロシアの首都モスクワは、城塞の街です。街の中には、宮殿、武器庫、教会など全てそろっています。中世のとりでが伝説の時代を現在に伝えています。
広大で美しく、殺伐としていて興味深い国ロシアは、まさに謎に包まれており、それに惹きつけられる旅行者もいます。

ロシアを訪れるのに最高の時期は、平均気温が1℃から25℃と比較的穏やかな5月、6月、9月、10月です。7月、8月は雨が降ることが多く、11月から3月の冬の間は、気温が氷点下まで下がり、日は短く、暗い日が続きます。しかし雪景色は美しく、1月、2月はスキーのベスト・シーズンでもあります。3月、4月の春先には、落ちてくるつららに注意してください。ロシアの気候は、極地気候、ツンドラ気候、森林気候、半砂漠気候と、地域により異なります。

ロシアには、まるで悲嘆と流血を描いた叙事詩的小説を読んでいるかのような、長くて劇的な歴史があります。ロシアの歴史における重大な出来事は、おそらくピョートル大帝、女帝キャサリンにまつわることと、1812年の祖国戦争、1917年のロシア革命、それに第二次世界大戦でしょう。

新石器時代(紀元前4000年から2000年)には、ロシア全土で人々が生活をしていましたが、ユトランド半島のバイキング、リューリクが、862年にノブゴロド公国を建てたのがロシア国家の始まりと言われています。
何世紀にも渡り繁栄したノブゴロド公国は、13世紀にモンゴルのタタール人の襲撃を受け滅び、その後、タタール人による支配が1480年まで続きました。16世紀には、国の拡張を図る雷帝イワンが、ボルガ地域を侵略し、ポーランドやスウェーデンの反感を買うことになりました。700年続いたリューリク朝が、子供のないフョードルで終わると、復讐心に燃えたスウェーデンとポーランドの侵略者たちは、それぞれ非情にもロシアの王位を要求しました。
この問題は1613年になってやっと解決されました。16歳のミハイル・ロマノフが王朝を築き、その後1917年までロマノフ王朝が支配しました。王朝最強の王、ピョートル大帝は、スウェーデン軍への勝利を祝い、新首都サンクトペテルブルクを建設しました。
ピョートル大帝は1725年に死去しました。今日に至るまで、彼はロシアの歴史の中で、最も重要な人物の中の一人とされています。彼はロシアを現代ヨーロッパの強国にしようと多大な努力をしましたが、その改革の多くは根付きませんでした。ロシアを偉大なヨーロッパの大国にしたいという彼の願望は、女帝キャサリンの時代になってやっと実現しました。
1761年12月25日、ピョートル大帝の孫息子であるピョートル3世が王位につきましたが、宮中全体を敵に回してしまい、彼の治世は一年も続きませんでした。その後、政治的な支援や一般の支持を広く集めた彼の妻キャサリンが皇帝に即位しました。ピョートル3世は退位を余儀なくされ、その一週間後にこの世を去りました。
女帝キャサリンは、ヨーロッパで最も強力な君主となりました。彼女はエルミタージュ美術館を創設し、ロシア全域にわたる建物を委託し、アカデミー、ジャーナル、図書館を設立しました。
1796年にキャサリンがこの世を去ると、息子のポール1世が王位を継ぎました。彼の治世は5年しか続かず、評判も最悪でした。その後は、彼の息子アレクサンドル1世が即位しました。彼は、ナポレオン・ボナパルトの大規模なロシア遠征の間、ロシアの君主であったことでよく知られています。

ナポレオンのロシア遠征(1812年の祖国戦争とも呼ばれる)は、ナポレオン帝国の終わりを告げる予兆でした。ロシアはナポレオンの大軍を破ったのです。しかし、ロシアがナポレオン時代よりさらに力をつけると、国内の緊張は高まっていきました。
ナポレオンのおかげで華々しく始まった19世紀は、険悪な紛争のうちに終わりました。続く100年の出来事は、1917年のロシア革命の糸口となっています。長い間耐えてきた農奴は1861年に解放され、抑圧的かつ独裁的な帝政支配に対する反発が高まっていきました。農民は、自分たちの土地に地代を払わないといけないことに腹を立て、自由主義者は、西ヨーロッパにならった憲法改革を唱え、テロリストは1881年にアレクサンドル2世を暗殺しました。レーニンの名で知られるウラジミール・ウリヤーノフを含む多くの急進派が亡命しました。

若くて悪名高く弱いニコラス2世の下で、日本との戦い(1904年から1945年)に惨敗したことにより、更なる社会的動揺を招きました。多くの一般市民が虐殺された血の日曜日事件は、大規模なストライキを引き起こし、実業家たちが殺害されました。社会民主主義活動家は、労働者の協議会(ソビエト)を結成し、1905年10月に決行されたゼネストで、国が折れることになりました。皇帝は最終的に国の最初の議会(帝政ロシア国会)の形成を認めましたが、その左翼的要求が気に入らず解散させました。第一次世界大戦での悲惨な戦いが、更なる不安を誘発しました。軍と警察は暴動を起こし、商業エリートたちによる帝国ロシア国会が再召集されました。労働者と兵士はソビエトを結成し、これによって2つの権力基盤ができました。双方ともに皇帝の退位を要求し、1917年3月1日、ニコラスはやむを得ず退位の勧告を受け入れました。
先に追放されたレーニンは共産党を設立し、レオン・トロッキーと共に、同士を1917年のロシア革命に導きました。ロシア革命により、皇帝の長い支配が終わり、共産主義のソビエト連邦が誕生しました。皇帝ニコラス2世(在位1895年から1917年)が、ロシアの最後の皇帝となりました。ニコラス2世は、妻や子供たちと一緒に、革命の後で処刑されました。

レオン・トロッキーは後にレーニンの下で、ソビエト連邦のリーダーとして勤めました。レーニンの死後、トロッキーは追放され、暗殺されました。
革命後は、ひどい経済状態に陥り、1920年から1921年は大飢饉に見舞われました。ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が1922年に樹立されました。1924年1月にレーニンが死去すると、彼の後継者のスターリンにより、世界の記録を塗り替える虐待が行われました。何百万人もの人が.処刑されたり、シベリアの強制収容所に送られたりしました。

ヒトラーとスターリンが署名した、ロシアのドイツとの不可侵条約は、第二次世界大戦の舞台を用意しました。条約が交わされていたにもかかわらず、1941年にヒトラーのバルバロッサ作戦が発動され、この戦いで最終的に人口の6分の1を失いました。
戦争の終わりに、ソビエトの東ヨーロッパ「解放」は、誤称であったことが分かりました。東ヨーロッパの多くの国を支配することは、ロシアが世界の超大国の一つとなるために必要なことだったのです。スターリンは粛清を再び始め、冷戦が進むと、西洋のイデオロギーは国の新しい敵であるとしました。

1953年のスターリンの死後、ニキータ・フルシチョフが最高指令者となりました。慎重なスターリン批判を進めるとともに、キューバに武器を配備していきました。彼の試みは、保守派のブレジネフやジョン・F・ケネディの瀬戸際政策によって実を結びませんでした。抑圧に力を入れたにもかかわらず、反対運動は起こりました。しかし変化は進んでいました。ロシア共産主義の悪いイメージは、ソビエトの因習打破主義者ミハイル・ゴルバチョフによって完全に払拭されました。

ゴルバチョフは政治的および経済的な改革を導入し、更なる開放を訴えました。1988年、彼は権力を党から新しい議会に移行するため選挙を開催しました。抑圧が減少したため、ソビエト15共和国よりまずバルト3国が独立しました。勢力範囲の減少と深刻な経済危機が、ゴルバチョフに国内の対立をもたらしました。
1990年までに、ソビエト連邦は選挙により、独立国家共同体(CIS)に取って代わられました。12月25日にゴルバチョフが辞任し、12月31日の午前零時、クレムリンに掲げられていたソビエトの旗も、ロシアの三色旗と取り替えられました。ソ連崩壊後のロシアには、腐敗した役人、融資者、ギャングがはびこり、薬物乱用、恐喝、殺人などの率も高くなっていました。

1991年8月の保守派のクーデターは、より急進的なボリス・エリツィンに新リーダーへの道を開きました。エリツィンの時代は、ロシア経済のグローバル化が進みました。エリツィンが首相を次々と解任したため、1999年には事態はいっそう悪くなり、経済もだんだんと停滞していきました。

2000年3月、ウラジミール・プーチンが大統領に就任しました。ロシアはOPECを除く、世界最大の石油輸出国となり、意外にも経済情勢は好転しました。2000年には、モスクワはニューヨークについで、億万長者が多く住む都市となりました。
しかし、ロシア軍の評判は悪化の一途をたどっていました。2000年8月には、原子力潜水艦クルスクがバレンツ海に沈み、乗組員全員が死亡しました。チェチェンの戦争は長引きました。チェチェン反乱軍が人質を取るモスクワ劇場に、落下傘部隊が突進した際、約120人の人が犠牲となりました。チェチェンのテロリストによる同じような人質事件が、2004年9月ベスラン学校で起こりました。死者の数は300人を超し、そのうち半分以上は子供でした。
確かに、ロシアには多くの悲劇と変化がありましたが、21世紀になり、ロシアの発展と復興は著しく、観光業も伸びを示しています。都市部はまだ危険な場所も多いですが、意外に人懐っこいロシア人、ボルシチに代表されるロシア料理、ウォッカなどなど新たな観光地として存在的な魅力は持っています。















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