カタール 基本情報

カタールは、真珠採取が主要な産業であったかなり貧困で小さな国から、ここ半世紀の間に大量の原油とガス資源開発のおかげで湾岸諸国で最も豊かな国の1つへと発展しました。全体的にカタールは、砂丘とソルトフラットが広がっていますが、活気あるドーハ市は、伝統的なアラビア風の建物と現代的な建築物が面白く調和しています。特に都市のグランドモスクやアブ・バクル・アルーシッディクなどの複数のドームが目立っています。国内の殆どの史跡があるカタール北部には、19世紀の砦の残骸を特徴としたウム・スラル・モハメッドがあります。カタールで2番目に大きい都市は、自然と浅い港に囲まれて発展したアル・ホールです。
カタールは、アラビア湾岸に沿った3つの側に囲まれています。西海岸には、「パームツリービーチ」としても知られている美しいビーチ、ウム・バーブやサウジアラビアとの国境に近いドハーンとサルワがあります。カタール南部では、砂丘とビーチが殆どを占めており、真珠採取ツアーの手配やさまざまなウォータースポーツを楽しむことが出来ます。パブリックエリアでのエンターテイメントは、かなり制限されておりライブエンターテイメントの催し物はたまにしか行われません。カタールは、1989年に観光事業を開放し、同年はじめて観光ビザを発行しました。今日まで訪問者の数は着実に伸びつづけています。成長している訪問客の数で、その年その最初の観光ビザを出しました。

カタールの天候は、あまり変化することはありません。毎日、太陽が照り暑く、雨が降ることは大変珍しく降っても冬の時期だけです。(年間の平均降水雨量はわずか800ミリ)。夏は、気温が40度にまで上がり年間平均気温以上となります。冬の時期の日中の温度は、わずかに涼しいですが、夜間になるとかなり下がります。旅行ベストシーズンは、最も程よい気温となる11月から3月までです。湿気があり、この時期は海岸沿いになると湿度が大変高くなります。7月から9月にかけては湿度が低くても不快な暑さです。また3月から8月まではシャマールと呼ばれる塵嵐がふきます。

今日アラビアのガルフの北部に接している国を統治する一族は、中央アラブ半島から18世紀と19世紀初期に移住してきた人たちの子孫です。ハリーファ家(現在はバーレーンを統治)は、現代のカタールである小さな半島に住んでいました。ハリーファ家は、1868年にイギリスとの条約に調印しましたが、カタールはそれにも関わらず1872年にトルコのオスマン帝国に吸収されました。
第1次世界大戦の間、オスマン帝国が撤退し、カタールは再度イギリスの領域となりました。初期の条約通り、カタールの諸外国との商取引規制と引き換えに、イギリスはサーニー家の内部の支配を支持し、イギリス軍による保護を提供しました。1968年までに、イギリス軍は「スエズの東」から撤退計画の一つとして湾岸を出発しました。バーレーンと休戦国(現在のUAE)とで連盟をつくることにより保安を強化するカタールの計画は不成功に終わりましたが1971年に、シャイフアフマッドの支配の下で、カタールは完全に独立した州となりました。

独立後すぐに支配する一族内の争いは、シャイフ・ハリーファ・ビン・ハマド・アルサーニ首長によるクーデターに終わりました。彼の体制の下で、カタールは、市民が利用できる健康と教育サービス強化による成功と同様に近代的な基盤の開発や財政強化のため、原油資源の開発を管理しました。同国は、湾岸地域や国際事情などに伴う問題に関して、サウジアラビアとともに同盟を維持しました。
イラン・イラク戦争では、殆どがイラク賛成につく中、反イラクの立場を取ったカタールでしたが1990年のクウェート解放に関係している多国籍同盟のメンバーの中では活発に活動しました。1990年代の初めに、カタールはイスラエルとの商業関係の強化など外交政策の実施において独立的な立場を示し、この地域でアメリカの戦略的な目的を歓迎しました。同時にカタールは、アフガニスタンのタリバン政権との関係を維持している数少ない政府の1つでした。1990年代後半 カタールは、サウジアラビアとの境界線にある原油が豊富なハワール諸島についてバーレーンとの国境争いに関与していました。

1995年に、支配する一族の論争が再度勃発し、無血クーデターの中、ハリーファの息子であるシャイフ・ハマド・ビン・ハリーファ・アルサーニが政権を奪取しました。ハマド首長は、その時、民主化の段階的なプロセスを開始し、初の女性大臣をポストに任命し1999年に初めて地方選挙を行いました。彼の努力は2003年まで続き国家議会を作る首長の計画は国家国民投票によって支持されました。しかし首長が自身の息子を後継者に任命したことで、今後も首相としてアール・サニーニが国家を指揮することを主張しており、民主化に対する若干の限度があるようです。
国際調停の助けを借り、バーレーンとサウジアラビアによる領土争いは、2001年に解決されました。実際このことは、サイリヤ(セイリヤ?)にアメリカ軍調整機関を配置し、さらにアルウデイドに空軍基地の拡大を許可した2002年の決定と比べると大して重要な問題ではありませんでした。この再配置は、サウジアラビアへ抱いていた地域の圧力を軽減する助けとなりました。2002年以降、カタールは、アフガニスタンやイラクのテロリズムに反対するアメリカの活動における重要な役割を演じました。































