
南米の国アルゼンチンは、国際都市としての顔と美しい自然が強烈な対照なしています。そして、そこに住む人々の情熱はどこまでも熱く真っ直ぐで、生への貪欲さが体中から滲み出ています。アルゼンチンというと、タンゴ、ガウチョ、エスタンシアなどを思い浮かべるかもしれませんが、アルゼンチンの超大な自然に驚嘆し感動する人々は後を絶ちません。野生が溢れる国立公園、神秘のパタゴニア、壮大なペリトモレノ氷河とイグアスの滝は自然の不思議そのものです。首都ブエノスアイレスは、ショッピング、ナイトライフ、食事、どれをとっても心行くまで楽しめる個性溢れる洗練された都市です。またまだ観光地としては知られていないアルゼンチンですが、その分発見も多いことでしょう。

アルゼンチンは両極端に溢れた国です。素朴な田舎、国立公園、多くの野生動物、息をのむような氷河、滝に反し、活気に満ちた都会の中心地を見つけるでしょう。アルゼンチンはある地域では暑く、同時に別の地域では凍るほどの寒さです。しかしながら、異なる地域間の共通点は地元の人たちです。すべての地元の人たちは人生に情熱を持ち、観光客はすぐにくつろぎます。
タンゴ、ガウチョ、エスタンシア(バレエ音楽)がアルゼンチンの最も有名な呼び物で、一度でもこの国を訪れれば、観光客は活気ある生活のペースが分かるでしょう。地元の人たちは一生懸命に働き、遊び、目一杯人生を謳歌しています。ほとんどの観光客はアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに直行し、ブエノス・アイレスは国際都市で、発展している近代都市です。ブエノス・アイレスには多くの特徴があり、わくわくするようなナイトライフ、充実したショッピング・チャンス、美味しい食べ物で有名です。
ホテルは様々な価格帯、水準範囲があり、宿泊料が高い分類のホテルでは優れたサービス、施設を提供しています。ブエノス・アイレスの豪華ホテルはこの都市の至る所まで拡張し、安価なホテルは主にアベニダ・デ・マヨで見つけることができます。アルゼンチンのどこに滞在するのか決めたとしても、サービスは一般的にどこでも充実していて、ほとんどの部屋にはエアコンが装備されています。

アルゼンチンの国は気候によって分類されます。アルゼンチンの北部、南部は1年を通じて全く異なる気候があります。アルゼンチン北部は亜熱帯性気候に属し、1年を通じて降水量があります。気温はしばしば上昇し、大気中の湿度は上がります。この地域を訪れるのであれば、薄手の服、リンネル類を詰め込む必要があるでしょう。
アルゼンチン中央部は通常快適な気候を体験でき、12月から2月の夏の時期には気温、湿度とも上昇しますが、7月、8月の冬の時期になると肌寒くなります。多くのヨーロッパ人が冬の時期に太陽を求めにやって来るので、12月から2月までがアルゼンチン中央部で混み合います。
南部のティエラ・デル・フェゴは年間を通じて亜北極圏の気温です。ティエラ・デル・フェゴは冬のスポーツに理想的な場所ですが、太陽光線から逃れることを望んでいる人たちにとってはそれほど理想的ではありません。アルゼンチン南部を旅行することを考えているのであれば、厚手の服が必須条件です。

16世紀にヨーロッパ人がアルゼンチンに入植する前に、存在していた2種類の主要な原住民グループがいました。ディアグイタ族として知られる人たちはボリビア、アンデス山脈に近いアルゼンチン北部に住んでいた一方で、グアラニーとして知られた部族の人たちははるか南部に存在していました。このような人たちのグループは独自にトウモロコシ栽培を展開しました。ディアグイタ族はインカ人がアルゼンチンにインカ帝国の拡大を防ぐことに成功したことで有名です。
このような原住民はスペイン人による植民地化、統治に首尾よく抵抗し始めました。最初のスペイン人の侵略者フアン・デ・ソリスは1516年に原住民の軍隊に殺害され、また、ソリスはブエノス・アイレスを防衛することにも成功しました。ブエノス・アイレスが最終的にスペイン人によって安全が確保された16世紀末までに、原住民は何とかスペインによる征服を防ぎました。
戦場で成功を収めたにもかかわらず、原住民の人たちはヨーロッパからの疫病の伝来によって極度に体調を崩し、間もなくスペイン人に対する原住民の脅威が極端に弱体化していきました。しかしながら、スペインはアルゼンチン人のことを大方無視し、ブエノス・アイレスは外国との貿易が禁止され、その結果密輸者がこの地で繁栄する機会を広げていきました。
スペインがナポレオンに敗北を喫した後に、イギリス人が1806年にブエノス・アイレスを侵攻しました。アルゼンチンの植民地は何の支援を得ずに、イギリスによる侵攻に何とか抵抗しました。抵抗力、勇気ある行動によって、この地域の独立心が促進しました。

スペイン国王フェルディナンド7世は1808年にフランス人に捕らえられ、アルゼンチンは完全に副王の支配下になりました。権力の変遷は地元の人たちに信じられないほど不人気となり、この変遷に反対し、通りに出て反乱を起こし、捕えられた国王に忠誠を誓いました。
1816年までに、アルゼンチン人とスペイン人との間に奥深い分裂がありました。分離派グループはアルゼンチンの独立を宣言することを決断しました。ホセ・デ・サン・マーティンはシモン・ボリバルと共にスペイン統治からアルゼンチンを開放するための権限が与えられました。
アルゼンチンの新しく創立された独立の初期の時代には中央集権主義者と連邦制度主義者との2つの政治グループ間の紛争が注目されました。中央集権主義者は強固な中央政府を望んでいた一方で、連邦制度主義者は地元支配を望んでいました。アルゼンチンは軍部に支配され、19世紀の間ずっと多くの問題の犠牲者に陥りました。このような問題には経済危機、汚職、人権侵害、1982年のフォークランド諸島の敗北が含まれます。

民主主義が1883年に復活し、アルゼンチンは安定し始めました。今日、アルゼンチンは首都サンチャゴに住んでいる人口の3分の1以上が少数民族との混血です。都会の地域社会は全人口のほぼ90%を占めていて、生存に奮闘している東北部のケチャ族、パタゴニア地方のマプチェ族のような固有の部族もいます。
































